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【特集】旅する藤里 田代食堂「田代秀隆さん」前編

【前編】








 藤里町総合開発センター1階にある「田代食堂」の店主・田代秀隆(たしろひでたか)さんは、藤里町鳥谷場(とやば)出身で、国鉄時代に特急列車の食堂車でチーフを務めた経歴の持ち主。26歳の時に帰郷し、空き店舗になっていた場所で食堂の営業を始めました。食堂車での修業時代のこと、藤里での開業のきっかけや当時の思いについて、田代さんに話を伺いました。






優しい笑顔でお客さんを迎える田代食堂の店主・田代秀隆さん




 
26歳で帰郷し、田代食堂をオープン


 ここをオープンしたのは26歳の時。昭和56年3月1日にオープンした。今69歳で、4月がくれば満70歳だからね。


 ここ空いていたんだよ、この食堂の場所が。ここは町の施設なの。昭和55年の10月ごろから、ここを管理している教育委員会で、食堂をやる人を探してあったの。その前は「かもや食堂」さんがやってたんだけど、2年前くらい前に辞めていたんだ。で、55年の11月かその頃から何回も教育委員会から電話かかってきて、「相談あるから来てけれ」って。






田代食堂の店内。今はスタッフと2人で営業しています



 その頃オレは「日本食堂」って会社にいて、特急列車についてる食堂車に、ずっと乗って料理していたんだ。だから、いつも秋田にいるわけではないんだけど、営業所は秋田にあるから、何時ごろにどこに電話かけたらいいか、聞いたんでないかな。それで、やたら電話きたので、「行くつもりねえから」って言ったんだけど、「まず話聞きに来てけれ」って。

 それで、12月ごろに一旦帰ってきて、教育委員会から話を聞いて、この場所初めて見せられた時は、ボロボロだったんだよ。物も何もねぇし。「まず、ごめんしてけれ」って一旦断ったりもしたんだけど、その頃しつこい人方がいっぱいいて(笑)。それで会社の料理長に相談したら、「まだ26だし、2〜3年やってみて、いらねがったら戻ってこい」と。それなら、まずやってみるかっていうことで、帰ってきてここで開業したのが56年の3月。





進学する予定が、大きく変わって「日本食堂」へ就職



 うちは普通の家だったよ。親父は営林署の職員で、おふくろは専業主婦。2人とも藤里の人だ。兄弟は、3個下の妹と5個下の弟。親父もおふくろも楽天家だったな。おふくろは相当働き者で、畑とか田んぼ作ってたから、ずっと毎日のように畑仕事。小さい頃は畑にばかり連れられて行ってた。

 想い出に残るおふくろの味といえば、「みそだまこ」だな。小学校のあたりかな、学校から帰ると食器棚のガラスの引き戸の中さ「みそだまこ」が1つ入ってて。大きいやつな。「油(あぶら)みそ」って、みそをフライパンであぶる時に、砂糖を入れる。すると、とろとろ〜と甘くなる。あれを塗ったやつ。それ食ってから遊びに行くんだ。






今は弟さんも妹さんも、秀隆さんの娘さんも、それぞれに子どもがいて「孫かで(孫の子守)だ」と笑います



 高校は能代高校だったから、下宿してた。大学に行く予定だったんだけども、不幸があって資金的に苦しくなって。高校3年の時、家前の田んぼの縁さ親父に連れられて、「おめどこ大学さやるじぇんこ(お金)、ねえでゃ」ってしゃべられて。なんも仕事も決まってねかった。日本食堂の寮長さんがおふくろの親戚にあたる人で、その人が日本食堂の秋田営業所の所長さんに話したら、3月の20日過ぎだったかな、入社式あるから、「それさ合わせてこい」と。そういうことで、料理の道に入ることになった。もう、成り行きで(笑)




日本食堂での修業時代「ただただ、見て覚えた」


 料理人の人からは、言葉で教えられるっていうことはなかった。「見てものを盗め」っていうか。そういうふうにして、勉強して、勉強して。ランク上げていくために、会社独自の試験がいっぱいあったんだ。皿洗いから始まって、調理助手になって、その調理助手にもAとかBとかあって。それから、列車の中で一番責任者であるチーフに上りつめるまでには、それ相当の年月がかかるわけよ。12年もやっても、試験落ちてなれない人もいたな。オレは6年でパッと、一本の電車任せられるようになった。




右が日本食堂で修業していた頃から使っている牛刀包丁。研いで使い続けているうちに、ペティナイフほどのサイズに



 列車一本の食堂車の中さ、調理師4人、ウエイトレスが6人。合わせて10人で1クルーだ。そのうちの2人が車内販売で、ワゴンにコーヒーとかサンドイッチとか回って歩く。あと、テーブルが4人。

 調理場は、チーフと、助(すけ)さん、Aパン、Bパンってあるのよ。Bパンが皿洗い、Aパンはコンビネーションサラダ作ったり、サンドイッチ作ったり。助さんがご飯炊いたり、味噌汁作ったり、そういうことをやる。お客さんから注文くれば、チーフがトンカツ揚げたりエビフライ出したりする。食堂車は、全部洋食だべ。それさ、幕の内弁当もあるし、季節になれば「きりたんぽ」も出すし。

 つばさ1号・2号、いなほ、白鳥、あけぼの、日本海、あおば。それだけあったの。それをクルーで3日がかりで行くわけ。初日行って、一泊、東京とか大阪とか青森だとか泊まるわけだ。で、帰りの電車で帰ってくれば、次の日は休み。大阪行きの白鳥の場合は4日になるわけ。





田代食堂の人気メニューの一つ「ドライカレー」。ルーから手作りの本格カレーです



 オレがいた時は、東京オリンピックの選手村の料理長が日本食堂の人だったの。それから、外国から国賓って言われる人たちが帝国ホテルとかに来ると、そこで料理を作るのも日本食堂の職員が行ってた。全部試験あるの、会社独自の。秋田県なら、秋田県の調理場あるところの料理長の推薦があって、本社さ行くんだ。本社で講習受けたり、試験受けたり。

 試験は、例えば「原価いくらで、こういう料理を作るのを発想して作りなさい」っていうような。玉ねぎ1個買うべ、12%は廃棄分だ。皮たぐるべ(皮をむくでしょ)。100グラムのものが80グラムとかになるんだ。それで計算するんだ。、その当時はメニューはフランス語で書かないといけなかった。分厚い、そういう自分でメニュー書いたやつ、今でも残ってるよ。そういう勉強するのは、あまり苦ではなかった。まぁ若い時だったからそれなりに勉強したけども、今この歳になって書けって言われても書けるもんでないな(笑)。






田代食堂オープン。26歳、「金なんかねえ」


 ここで店を始めて、スバゲティだとか、ハンバーグだとか、全部手作りで作っていたんだ。作り方は全部覚えてるから。いろいろ作ったけども、全部さばくほど出ないのよ。オレは40年も前からランチにコーヒー付けてあったよ。でも、その当時の藤里の人ってコーヒー飲まねぇの。「茶っこけれ」って。かけ離れた世界の中にいるような気分だったな。

 今現在ここにいて、フルコースのようにしてご飯食べる人たちや、団体さんはいるよ。前菜から出して、牛タンシチュー出したり、白神和牛ステーキ出したり、コンビネーションサラダつけてとか。洋食の会席で、全部テーブル並べて、テーブルクロスをバッとかけて。そういうふうにしてワインを飲みながらっていう人もけっこういるよ。

 洋食から始まったけど、そのうち「お膳っこみたいなのもやられないか?」って言うから「やるよ」って。天ぷらつけて、焼き物つけて、和えものつけて、って。どっちもやるようになったな。





小さい店なのにたくさんお酒が売れることを、問屋さんにびっくりされたこともあるのだそう




 オレはテナントとして、家賃を払ってここを借りてるの。町の施設だから、備品は町のもの。皿だとか、そういうものは自分の金で買わないといけないの。26歳なんて、金なんかあるはずねえべ。当時、藤里の「浅利電器」っていうとこで、茶碗だとか何でも売ってる店があったんだよ。そこで、「ある時払いの催促なし」で必要なものをみんな取り寄せた。そこの社長さんにしゃべっても分からねえから、問屋さんを連れてくるわけよ。で、オレが必要なもの言うわけだ。そうすると、業務用の食器だとか、フライパンだとかキャリアだとか、問屋の人なら分かるわけよ。それを全部取り寄せてもらって、毎月売り上げの中から、今月は10万円、今月は売れなかったから5万円、今月は売れたから20万円とかって払っていったのよ。2年近くで全部、完済したよ。

 (日本食堂の)秋田営業所の仕事の中で、付き合いのある問屋さんがいっぱいあるべ。アサヒビールとか肉やさんだとか、米買うとこでも、それからコーヒーでも。そういう問屋さんは覚えてるから、電話かけて、「藤里まで配達できるか?」って聞いたら、「やりますよ!」って。そういうふうにして、40何年、いまだに付き合ってるんだ。






最初は「戻りたい」と思っていた


 最初のころは、夜の8時に店が終われば、街が恋しくて、秋田まで車で行って一杯飲んだもんだ。いつもの友達と行ってるとこで一杯飲んで、会社に前泊・後泊用の4階建てのビルがあって、そこさ寝泊まりできたから、「おう!」って言いながらふらっと行って前泊の部屋さ寝たりして。朝6時か7時ごろ起きて、帰ってくるの。よくそうやって遊んだもんだ。30歳ごろまでは、戻りたいって思っていたな。





「当時の常連さんも、皆それぞれに歳をとったな」と秀隆さんは話します



 30歳ぐらいになった頃、ここにも常連さんができて。毎日飲みに来る役場職員とか、そういう人がいっぱい出はじめたのよ。それで、辞められなくなったもの(笑)。3年くらい経って、だんだん皆さんと親しくなれるようになって。またこの藤里町っていうのは、すごい飲み助が多いの。最っ高に飲むよ、とにかく。

 32歳の頃には、藤里さスキー場出来たんだ。そこさスキーハウスが出来て、そこの2階に食堂も出来たの。オープンの時から、オレ支配人として使われた。それから、素波里に「サフォークの館」って羊食べさせるとこあるべ。あそこも、オレが支配人で最初いってたの。みんなゼロからスタートする時に、オレが支配人やらせられてるの。それで、逃げられなくなった(笑)






(後編へ続く)





*旅する藤里 まとめページへ
https://www.town.fujisato.akita.jp/kanko/notices/2496








聞き手&書き手:島田 真紀子(しまだ・まきこ)




有限会社無明舎出版 勤務を経て、2012年からフリーライターとして雑誌・WEBなどの記事を執筆。
秋田県を中心に、観光・食・子育て・スポーツ・医療などについて発信しています。大館市在住。
 

 


知られざる藤里の旅は、“大切なものは何か”気付かせてくれるはずです。

このコラムは聞き書きの手法で藤里町ツーリズム協議会が制作しお届けしています。

藤里町ツーリズム協議会 電話0185-79-2115


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