大豆と米と母の教え
名人:淡路 敬子(あわじ けいこ) 秋田県山本郡藤里町
高校生:海老名 祐依(えびな ゆい)(福島県立福島南高等学校2年)
![]()
【前編】
自己紹介
淡路敬子です。生年月日は1949年10月24日です。出身は藤里の巻端家上(まきはっけかみ)逆巻(さかまき)っていう素波里(すばり)のちょっと手前。今はもう一番奥かな。地元で産まれて地元で育った。1人暮らしです。娘2人いるけど、横浜で看護師しています。長男は亡くなりました。
物づくりの始まり
高校は大館の桂高校。体弱かったからもう月に1回風邪ひくような虚弱体質。だから、自分の身体を丈夫にしようと思ってバレー部のマネージャ―をやらさせてもらった。走ったり事前準備はみんなと一緒だから、その点で健康になったんでないかなって感じする。それを3年続けた。1番大変だったのは合宿のときの炊事。ご飯支度はマネージャーが先になってしなきゃいけない。けど、ご飯足りないともう最低だもんな。(笑)それで、どのくらいの米を炊けばいいのか、何を食べればみんな元気出るか、そん時から考えねばねがったんだなって。物を作るっていうことがそのあたりから始まっているんだなって今思う。それが基本になって繋がって今があるのかなって思ったり。
味噌づくりとのであい
昔、藤里町で高血圧から脳溢血(のういっけつ)、脳出血と死亡率もすごく高くて町の保健婦さんと農協の生活指導員と地区の生活改善実行グループの人方で何が原因か、どうするか、何をしますか、を協議した結果、やっぱり味噌がしょっぱいんでないかと。なんでしょっぱくするかっていえば、飢饉とか、不作な年のためにしょっぱくして長く持つようにしてた。
まず、「味噌の塩分からにしましょう」と。昔作ってあった塩分は20%であったそうです。それをどこまで下げたら改善につながるか、っていうのをJAの生活指導員の人方に指導してもらって、平成の6年に一斗の豆、一斗の米、それの13%の塩というふうに計算して、13%ギリギリまで下げました。個々に作れば、また同じことするから、みんなで作れるようにと、農畜産物処理加工センターに役場の農林課から新しくできた特産課に異動になりました。(私は役場の)臨時(職員)だったけど若い人では、ちょっと務まらないから年寄り連れてかなばねぇて。(笑)それで年配の私が選ばれて加工センターにきました。
すぐには受け入れてもらえなかった
減塩は町民にはすぐには受け入れてもらえなかった。味噌容器の上に塩をあげるのを当たり前のようにやってて、それをやめさせることを考えて。だばって(でも)、「腐ればどうなる?」とかそういう感じで、信用してないわけよ。
加工センターで加工していたもの
① マルメロとぶどう
硬めの酸味が強いマルメロとぶどうを加工して、アイスクリーム、ジュースにしてた。
② しそ
しそジュースも産み出した。畑にしそ植えて、葉っぱとって、煮て、実験して、食品研究所の先生に聞いて、悪くならないようにクエン酸を少し混ぜていってっていうのを勉強して。あっちゃこっちゃに少しずつしかなくて、農家で畑やっている人に一つの畑でしそを作ってもらって、それでしそジュースをたくさん作った。
③ 舞茸
舞茸の佃煮もやった。
最初生の舞茸で作ったけど、長持ちしなくて、今度乾燥舞茸を使うようになって。舞茸は夏の間は水分が多くて、あまり良い状態じゃない。そこを利用して佃煮用の舞茸を乾燥してもらって。1年で1つ何かできればよい方かなって感じ。なんでも育てる、それから作る。まず1つ出来たら、「よし、できたー!」よし次何か。(笑)物好き人生ほんと飽きね。
加工センター独立のきっかけ
加工センター時代に役場の正職員がみんな異動になってしまって、リーダーにさせられたんですよ。それで、幼稚園の子供たちが施設見学に来ました。物好きな子がいて、袋に入ってる乾燥大豆を見て、「おばあちゃんこれなぁに?」と言ったのが始まり。「あれおめぇ農家の孫だっしゃ(でしょ)?」と私が分かる農家の子どもだったわけよ。私ら農家で育てば、大豆も米も当たり前の世界で、目で見てきている。今の時代、山の子も町の子も大豆とか見て育たないから、あるのは分かるけど、種をまいて芽っこ出て枝豆食べて、どういうふうに時間がかかるか分からないんだなとそん時感じたわけ。

乾燥大豆
やるってば!やるってば!
60歳になって退職したら、ここ(現在体験工房がある場所)に来て、何か体験する場所をやりましょうという思いでいた。そしたら、周りからここを解体します、と聞いたわけ。今の佐々木町長が担当していたから、「どうなった?」と聞いたら、「解体するよ」と。それで私が、「ここさ来て、体験工房をやりたいと思ってたんだけど、何とかならねぇか?」と言ったわけよ。「うーん」と言われたけど、次の日、「おめぇ本当にやるったべ。途中でやめるとかなんとかってことねぇったべ?」って何回も念を押されて、「やるってば!やるってば!」って(笑)加工センターの入り口で押し問答して「よし分かった」って県までいった書類を取り下げてくれたんだ。ありがたかった。
体験工房を始めるにあたって
「来春からやるようにさねばうまくねぇよ」って前の年の秋に言われて「じゃあ、加工センターを退職します」と決めてから、その間に調理師とか製菓衛生師とか、資格で取れるものみんなとって、そして3月31日でやめました。4月1日から体験工房にきました。
味噌の名前
原材料は地元の農家で生産した物を使ってる。味噌の仕込みをして仕上がりまで1年かかる。熟成期間の気温がこの味噌にぴったしで、おいしい味噌ができる。白神の里はいろいろな面で恵まれているんだなぁーという思いから、平成20年に「白神の恵」と名付けました。
年に2回味噌をつくる
味噌は、年に2回、冷房とかの設備がないので、11月12月。冬になれば水道が凍る。3月、彼岸があければ、日が暖かくなって水道が凍らなくなるから、3月、4月、5月と。年間半年しか作業しないけども、農家の人方もそれさ合わせた方が春、農作業さ降りる寸前というか忙しくならないうちにやる。
味噌の特徴
麹の量が多い感じ。大豆一斗13キロ、米15キロの麹を作りました。麹を作れば、15キロの米が17キロか18キロ近くの麹になる。それを全部入れる。だから麹の量が多い。10キロぐらいしか入れないとかしないで、できた物を全部入れるから美味しいっていわれるんだべなーって思ってる。

左が2年、右が10カ月おいた味噌
届けたい
作った味噌は地元の産直や、白神山地森のえき、二ツ井のきみまち阪の道の駅で手に入る。個人には、千葉の柏市の藤里出身の人もやっぱり実家の味噌がうまいって言ってあったんだけど、隣近所に食べさせたら買いたいと。そういうわけで、2ヶ月に一度12~13キロ送っている。

実際に売られている味噌
味噌づくり体験の流れ
味噌づくり体験の大豆は、真空にして冷凍して作っておいて、「明日、味噌づくり体験したいです」って連絡が来れば、それを出して、自然解凍してミンチ機でぐるぐるって味噌を作っていく。

真空に作業している淡路さん

体験に使う材料
物好き人生になった
やっぱり味噌づくり体験だけではまだ食べていけないし、自分でほかに何かを考えて販売するのを少しずつやろうと思って。
母親が市日に出て漬物をつけたり、おやき作ってるのを手伝って覚えていたから、昔のレシピみたいなものを引っ張り出して、見よう見まねでおやき作ったり、大福作ったり、赤飯作ったりして少しずつやってたら、今みたいにあれもこれもって物好き人生になった。
今につながるもの
母からもらった昔のレシピみたいなのが3冊あるんだけど、今色々作っているのはこれがやっぱり元。
【取材日:2025年9月28日、10月19日】
【名人プロフィール】

氏名:淡路敬子
ふりがな:あわじけいこ
生年月日:昭和24年10月24日 76歳
職業:味噌づくり、郷土料理家
略歴:昭和24年、秋田県藤里町に生まれる。大館桂高校を卒業する。現在の役場(農畜産物処理加工センター)のつながりで農林課から特産課に異動になる。そこで、施設見学に来た子どもが味噌がどうやってできるのか知らないことに衝撃を受け、58歳で加工センターを退職、独立。60歳から味噌づくりの体験ができる「白神の恵体験工房」を設立。現在は白神の恵体験工房の代表を務めている
(後編へ続く)
*旅する藤里 まとめページへ
https://www.town.fujisato.akita.jp/kanko/notices/2496
知られざる藤里の旅は、“大切なものは何か”気付かせてくれるはずです。
このコラムは聞き書きの手法で藤里町ツーリズム協議会が制作しお届けしています。
藤里町ツーリズム協議会 電話0185-79-2115
*白神山地ふじさとのストーリーが届くフェイスブックはこちらです*
フォローすると定期的にストーリーが届きます
https://www.facebook.com/fujisato.syoukoukankou




































