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【特集】旅する藤里 「ふる里」前編

【前編】







地元の朝野球リーグにも欠かさず出場している根っからの野球ファン。







 藤里町の中心部、藤琴地区にある居酒屋「ふる里」。店先にかかる赤提灯が目印です。店内には巨人グッツが飾られ、往年のスター写真も貼られています。カウンターのほかにお座敷や小上がりがあり、地元の話し声を聞きながら飲むことができます。

 お店を始めて22年。マスターの伊藤正由さんに、お店を始める前に東京で働いていた時の様子や、東京を離れることになった経緯などを伺いました。







店の目印、赤ちょうちん。





お小遣いを稼ぎながら、映画を観ていた少年時代。


 7人兄弟で、父親は営林署と農業の仕事をしていて苦しかったよ。でも、映画だけは見せてくれた。昭和30年代で当時30円とかだったかな。それなりに高かったから、アルバイトで牛乳・新聞配達をして稼いだ。

 映画館で新聞を取っていたおかげで、タダで見せてもらってね。うちのある寺沢のすぐそばにあって、映画館のことを劇場と呼んでいたんだ。旅芝居、チンドン屋も来ていて、景気が良かった時代。家の近くに当時4階建てで、能代から来た人が経営していた料亭白雲閣があった。藤里で一番高かった。

 白雲閣は、生寿司もやっていたから、配達で手間賃をもらってね。遊んでいるとバイトしないかと声をかけられたんだよ。家では小遣いもらえなかったから、その配達で駄賃をもらっていた。中学になってからは、部活に入って辞めたけれど。大町の菊池肉屋さんがあった隣に市川さんの新聞配達の場所があって、うちの兄弟はみな新聞配達をしていたよ。

 映画は1週間に1度くらいのペースでやっていて、子供向けや成人向けもあった。映画館に冷暖房はないから、夏になると窓を開けるんだよ。だから、外から見えるし、中で観ていると蚊にも刺されるの(笑)。昔は、写真は特別なものだったから、その時の写真は残っていないね。







かつて寺沢にあったという白雲閣。(写真中央)






東京で働きながら、アクションの勉強をするように。


 中学の頃までここ藤里にいました。勉強嫌いで学校に行きたくなかったから、昭和45年に卒業して就職することに。東京・大田区にある秋田の能代出身の社長がやっている、従業員100人規模の工業機械を作る会社にね。

 秋田の人を採用する会社で、藤琴や米田出身者もいて。今、社協(社会福祉協議会)で働いている人もその会社の先輩で。秋田の人がいるから働きやすいだろうという気持ちから、そこに決めたの。秋田弁で不自由しなかったけど、なまりは取れないよね(笑)。

 大手企業の下請けで、旋盤、精密機器とか、戦車、新幹線の部品も作っていた。寮に入って、朝から晩まで真っ黒になるまで働いたよ。みんな我慢しているけれど、一生これで終わるのかな……と思ったら、嫌になってきて。5年勤続はもらっているから、6、7年ぐらい働いたか。

 映画の仕事をしたくてね。会社にいた時にも劇団の面接を受けて、練習に通ったこともあった。電車で2時間かかる場所まで行って、乗り換えが多いしお金もかかる。給料をもらっても電車代でなくなるんだよ。

 だから、アルバイトしながら学校に通うことにして、自由に練習に行かせてもらうところを探して、入ったのが魚屋さんだった。大泉撮影所(東京都練馬区)の近くで、大泉学園駅の商店街にあった。アパートを借りて、そこで魚の売り子をしたよ。先に上がらせてもらって、練習に行って、アパートに帰ってくるのは最終電車で。若い時は怖いもの知らずでやっていたね。

 映画は特別な人たちが出る、遠いところだと思っていた。東京の寮ではテレビばっかり見ていたね。子どものヒーローものが多かったけれど、ブルースリーのアクションものも。憧れだったなあ。中学生の時に体操部だったこともあって、興味本位でやりたいと思った。見ているのと現場はまた違って、経験してこういうやり方で作るんだと分かったよ。

 学生として時代劇、現代劇、空手とか、映画よりもテレビ時代で、ヒーローものもやった。アクションの勉強は1週間2回あった。芝居も覚えたほうがいいと言われて、昔の台本もらってセリフの練習をしたりもしたね。撮影所で人が欲しい時は、エキストラで現場に派遣されたよ。通行人の役とかね。東映所属では、アクション俳優はエキストラ専門の人とは違う待遇を受けたもんだよ。








カウンターでは招き猫コレクションがお出迎え。






アクションスター倉田保昭に弟子入りし、切磋琢磨してきた。


 アクションの学校を卒業すると、東映に残るかどうか選択しなくてはいけなくて。辞めていく人もいたよ。常にエキストラの仕事はもらえるけれど、それだけでは飯は食えない。日当や手当しかもらえなし、田舎から出てくると食べるのはカップラーメンとかにしても、アパート代は稼いで払わないといけない。だから、東映から離れて、倉田保昭さんがやっていたアクションクラブに入ることにした。

 『Gメン’75』(日本の刑事ドラマ)に出ていた、倉田保昭が師匠だったの。茨城出身で日体大に入って、それから東映に入って、時代劇、ヤクザ映画ブームで活躍してから香港に渡った人で。香港から帰ってきて和製ブルースリーと言われ、自分でアクションクラブを立ち上げたの。東映から残らないかと俺にも声がかかったけれど、倉田さんの方に移って事務所に所属したの。フリーだと仕事はもらえないから。

 それからはゴールデンウィーク、日曜祭日になると、デパートなどでヒーローショーをやった。東映の番組で、那須高原のホテルとか地方にも行くこともあったよ。映画の練習しながら、人集めでそういう営業の仕事もしないといけなくて。音楽、機材の人も一緒にまわってね。

 ヒーローショーは、30分のショーを1日2回。昭和50年代でギャラは7000円だったから、いい方だったんじゃないかな。食事、足代は別にもらえてね。目まぐるしく変わる時代で、ラーメンは数百円だったかな。

 斬られ役、やられ役をやってた。主役を盛り上げるために要求されたことは全てやらないと、首を切られてしまうからね。東映には練習するための施設がなくて、別に道場を借りて、トレーニングをしていたよ。

 食堂と道場が一緒だったところがあって、経営者が香港の人で烏龍茶がでてきてたな。代々木のトレーニングセンターとか、中野サンプラザにも道場があって。トランポリンの練習をしたり、時代劇は道場で稽古をしたり。アルバイトもしながら、日々鍛えていました。師匠の倉田さんや兄弟子が教えてくれたりしてたね。

 アクションはケガをしてはいけないから、ショーの本番向けに練習内容を設定して、本番当日はその通りにやる。リーダーはいるけれど、みんなでやられ方を考えたり。本物に近い演技をしないと、子供たちは喜ばないからね。

 倉田さんは妥協を許さない人で、後ろ向きに走ってこいと言われて途中で足を出されて、瞬時に飛んだりするような練習もやった。瞬発力の練習だよね。あとは、特撮で本当に殴られているように見せる練習とか、撮影用語を覚えたり、衣装帯の締め方、着物の着方、袴の履き方なども覚えた。

 町人、岡っ引きは、下は脱いで衣装を着る前に最初にカツラをつけるの。じゃないとせっかくセットしたカツラが台無しになるからね。時代劇の撮影は、京都が多かったし、東京でも撮るとなると電線とか入らないように山奥に行ってね。1時間ロケバスに乗って、山の中で撮影して帰ってくるような感じだったよ。

 ロケ弁も出るけれど、東映のロケ弁は“猫またぎ”って言われていたの。経費をかけられないから、猫もまたぐほどの味の弁当だって(笑)。いろんな経験ができて、毎日が楽しかったな。芸能界で生きていくためには、自分を磨いて仲間より突出していかないといけなくて、競争意識があった。でも、同じ気持ちでやっているから、撮影の後に仲間と飲みに行くこともあった。新宿のゴールデン街に行ったりしてね。いい仲間ができた青春時代だったな。

 練習終わったら道場で烏龍茶を飲みながら、倉田さんから質問されて反省会。練習の時も本当に当たってしまうことがあるからいつ何時も妥協しなかったし、自分は殴られても蹴られても文句は言えず、有名な人を絶対に傷つけてはいけないことだけは身につけた。










奥の座敷にあるマスターの映画スターコレクション。








そろそろ潮時かなと思って、アクションの道からは引退。


 いろんな撮影をやっていて、常に有名人がウロウロしている状況で。小林旭、宍戸錠……。子供の頃に見ていた、遠い世界の人が目の前にいたり、一緒に仕事ができたり。女優さんは美人ばかり。俺たちみたいな脇役を相手にしない人もいれば、普通に話しかけてくれる人もいる。アクションをやる時、向こうからお願いされると、やる気が高まったよね。俳優が引き立つよう、いいアクションをしようって。うまくいくと喜んでくれたしね。

 スタントマンの仕事で、アクションシーンの代わりをすることもあったし、女性の衣装を着て顔、女優の代わりにアクションシーンだけをやったりね。演技経験はないけれど、空想シーンとか、火の玉が飛んでくるとか、術にかけられるとかやることもあった。

 特撮班が後で組み込むんだけれど、特殊撮影はね、完成形が見えない中で、見えるよう演技しなきゃいけないの。助監督が指示だすんだけど、難しいよ。アクションクラブの2年間ではいろんなことを覚えないといけないし、飯が食えないとやめていく人もいた。芸能人の付き人になってしまった人も多かった。

 付き人になるのは、手っ取り早く俳優になれるという考えからなんだけれど、東映の社長には「付き人になるな」と言われた。付き人で有名になる人もいるけれどね。俺も俳優横路克彦さんに、付き人にならないか声をかけられたけれど、車の免許がないのがネックで。撮影所、ロケ地には連れていけないから。でも横路さんはかわいがってくれたよ。

 倉田さんのところに移ってから、日テレ(日本テレビ)の仕事を半年やったけれど、次の仕事があるか分からないので、やるかやらないかの選択することにしたの。東映の社長から、また戻ってくればとも言われたけれど、もう27歳か28歳になっていたからその気持ちはなくなった。

 結婚もできない、飯も食えないって頭をよぎったし、若い人たちが入ってくるし。エキストラの仕事はあると言われたけれど、そろそろ潮時かなと思って。働いていた魚屋の社長からは、「エキストラの仕事をやめるなら魚を覚えろ、教えるから大丈夫」と言われて。「結婚をしたらそれなりに給料をやるから」とも言われて、アクションは好きだったけれど生活を考えるとなあという気持ちになってきた。

 付き人やった人の中からは売れた人は誰も出てこないし、演劇出身の人はアングラ(アンダーグラウンド)でやって個性派として認められて出てくることもあるけれど、アクションだけやっていたのではダメ。芝居ができないと。でもどうしても、頭がアクションに行ってしまってね。

 その後、東京で結婚して子供ができて、しばらく向こうにいたよ。魚屋の師匠からは、何につけてもお客さんが大事と教えられた。変なお客さんもいたけれど、常に我慢する社長は経営者だったと思う。








気さくな女将の美佐子さんが笑顔で迎えてくれる。





(後編へ続く)

*旅する藤里「ふる里」 後編
https://www.town.fujisato.akita.jp/kanko/notices/2113


*旅する藤里 まとめページへ
https://www.town.fujisato.akita.jp/kanko/notices/2496














     ライター : 久保田真理(くぼた・まり)
  
   ライフスタイル誌の編集者、オーストラリアでの写真留学を経て、フリーランスとして独立。国内外の取材を通じて、多様な生活や文化の魅力を発信する。秋田市生まれ、茨城・千葉育ち。趣味は、日本酒、トレイルランニング、ソウルミュージックの世界に浸ること。

 


知られざる藤里の旅は、“大切なものは何か”気付かせてくれるはずです。

このコラムは聞き書きの手法で藤里町ツーリズム協議会が制作しお届けしています。

藤里町ツーリズム協議会 電話0185-79-2115


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    登山にスキー、白神山地の散策など
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